二月一日(土)

7時に起きる。久々に待機業務である。ラボで紅茶を飲む。

3時間ほど博論を書いた。Gelberと神野・井村を比較しながら、日本における"hobby"の受容史が実は書かれていないことに気づく。井村(1999)には、かつて道楽と呼ばれていたものが趣味と呼ばれるようになったという日本語の問題は書かれているが、英語の"hobby"が日本でどう読まれたのかは書かれていない。

主に記述したのは、"hobby"と「趣味」では、社会からの肯定的な意味づけの背景が異なるという点だ。"Hobby"の場合は資本主義の労働倫理が背景にあるため、"hobby"のシリアスレジャー的な側面は「真の仕事」として肯定的に捉えられる。一方で、「趣味」の場合はtasteの具現化が背景にあるため、シリアスレジャー的な側面よりも「幅広く、適度に楽しむこと」が肯定的に捉えられる。これは結構、腑に落ちるところがある。

ただ、これが事実として"hobby"と「趣味」の差異を反映しているのか、それとも行われた歴史研究のパースペクティブが異なるからなのかは分からない。Gelberは野球の研究をしていた頃から「仕事への価値づけ」をテーマにしているし、神野や井村は美学的な文脈でのtasteの研究を先にやっていた。「趣味」も日本における労働倫理の観点から歴史を記述しなおせば、"hobby"と似たものが出てくるだろうか。でもそう問うてみると、出てこなさそうな気がするんだよな。「趣味」に関して、教養や道徳ではなく熱中することの価値が語られた局面があったとは、素朴には思えない。

そんなこんなで18時まで勤務した。途中で彼女から晩ご飯を食べようと連絡が来たので一緒に食べて帰った。長塩くんからLINEが来て、 #毎月一日は読書記事の日 であることを思い出したので、構造化文章への萌えについて書いてFacebookに投稿した。

杉山