十一月二十八日(土)

Brown & Bell (2004) CSCW at Playを読んだ。期待して読んだのに分析が退屈すぎてがっかりしてしまった。バリー・ブラウンは余暇、HCI、会話分析と自分にとって重要なワードを網羅している研究者だし、理論的な主張は面白いのだが、実証がこの調子だと肩すかしを食らってしまう。

序論は面白い。HCIやCSCW研究は基本的にシステムが人にもたらす不快さをいかに減らし、活動の効率性をいかに高めるか、という目的に向かって進められるが、ゲームではそうではない。むしろ、複数の人々とコンピュータの関わりによって生み出される「楽しい経験」をつくりだすことが目的であり、それはHCIやCSCW研究に美学や物語、文化を持ちこむことだと述べられている。重要な主張だ。

しかし、実証で行われているのは、オンラインゲーム"There"における様々な相互作用の分析ということになっているが、それがなぜ楽しい経験を生み出しているのかについての考察が杜撰だ。例えば、Thereではアバターの視線や会話が実装されていて、日常生活と変わらないような会話を行うことができると分析されている。ブラウンらはそれがThereにおける楽しい経験を生み出していると考察しているのだが、なぜそう言えるのかが納得できない。日常生活のあらゆる会話が楽しいわけではないのに、日常生活の会話が再現できるからといって、それが楽しさをもたらすと言えるのだろうか。

おそらく、ブラウンらは次のような推論をしている。

  • [p→q] オンラインゲームは楽しい経験をつくりだす
  • [p→r] オンラインゲームは日常生活の会話を再現している
  • [r→q] 日常生活の会話の再現は楽しい経験をつくりだす

オンラインゲームをプレイしているあらゆる瞬間が楽しいのであれば、この論理は成り立つ。おそらくブラウンらは自覚しているかどうかはともかく、その仮定を採用している。だからゲームで行われることは全て楽しい経験をつくりだしていると解釈してしまう。

しかし、ゲームだって退屈にプレイできてしまう。明らかにこの論理は間違っている。ゲームを研究したから、余暇活動を研究したから、必然的に「楽しさ」を研究することになると思ったら大間違いだ。

ところが、「プレイすること」と「楽しむこと」を無条件に同一視してしまう研究は多い。余暇研究でも「楽しさ」や「楽しむこと」が何なのかを扱う研究は見かけない。余暇活動を対象にしているから、楽しいことが当たり前になっているのだろうか(という点では leisure boredom の研究は面白いかもしれない)。

「会話をすること」と「会話を楽しむこと」は日常生活でも区別されるはずである。そのうえで、CSCWシステムが、ただ会話をすることではなく、会話を楽しむことをいかにして可能にしているのか。そこまで焦点化した分析をしてくれれば良かったのに。

『楽しみの技法』の質疑応答以来、ずっと同じことを考えている。自分はそこに取り組んだ研究をするべきということだろうか。どのようにすればよいか。

杉山