十一月二十九日(日)


 本来自分の順番ではないけど、書きたい衝動というか書かないといけないという罪悪感があるので、書くことにする。本来なら知らせを受けた金曜の夜に書くべきで、そうすれば順番通りなのだけど、土日ずっと心が上の空になって真剣に向き合えなかった。ひたすら他人に甘えてやり過ごした。でもさすがに今週は通夜がある。葬儀がある。向き合わなければいけないが、内省しようとすると逃げる癖があるので、文章を作って心に形を与える。

 

 知人が死んだ。仕事でお世話になった人だ。少しの間だけ仕事を共にしたこともある。そのときは仕事のペースがいろいろかみ合わず、立場上こちらが折れることが多くあったので、なんとなく悶々と愚痴めいたものを抱えていた。だけどそれと同じくらい、こちらが困憊しているときいろいろ慰めてもらった。あちらが抱える事情も聞いた。こちらの抱える事情も聞いてもらった。仕事を共にしなくなった後も、何度となくこぼしていたらしい次の異動先が自分と似ていたので、また十年後くらいにひょっこり会えるだろうと思っていた。そのくらい記憶の中では、所作や言動を思い出せるくらいには共にいた人だ。そしたら死んだらしい。

 

 何度もその人が送ってくれた最後のメッセージを見た。まったく泣けない。本当に、自分の中にある記憶のリアリティが、一年前のままだ。死んだという知らせのほうが、現実感がない。いまだにない。

 遺影の中の顔は笑ってるにきまっている。どうせ何度も見た顔だ。まじで、ほんとうに、心の底から、見飽きた顔だと思う。LINEのアイコンにも同じ顔がある。遺影なんてただのポートレイトだ。職場の忘年会やら海釣りの時間やら女子会中に気軽に撮られる軽率な一枚とまったく同じだ。おめかしの度合いが違うだけだ。

 棺の中の顔を見るのが、本当に怖い。

 最後にみた祖父の顔が、生前のそれとあまりに違って、モノというか、非人間というか、そんな感じだったのが記憶に残っている。それと同じものを見る。たぶん今週。記憶の中にある精彩が、遺影の前で華やかにすりつぶされる。思うだけではきそうだ。


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