十一月二十三日(月)

ロジャース・ホールがJounral of the Learning Sciencesに書いたグッドウィンの回想を読んでいたら、アリゾナ州立大学で開かれた「Learning How to Look & Listen」というワークショップの記録が紹介されていた。教師が子どもたちに対して「物体は空間を専有する」ことを説明している2分間のビデオを、相互行為分析に携わる研究者たちがそれぞれ視聴して分析し、その後グループでデータセッションをしたという催しである。グッドウィンやロゴフ、ホールをはじめとする人々が、自分がどのような相互行為分析を行ってきたのかを紹介するプレゼンテーションもある。

このワークショップでは「人は物質的資源や身体を使いながらいかにして説明や理解を達成するのか」といった事柄が問題になる。グッドウィンの研究を紹介するホールの書き方もそのようなものだ。説明、理解、身体・・・相互行為分析が明らかにするのは人間の活動の基礎の部分なので、様々な領域を対象にした研究の知見が相互連関する――例えばグッドウィンによる考古学者の研究が、ホールとスティーブンスによる土木技師の研究で活用される。訂正もそうだろう。

こういった研究を追っていると、「趣味」という研究トピックの立て方にどんな意味があるのか分からなくなってくる。どんな領域に当てはまるような基礎的なトピック(例:説明)ではないし、かといって領域固有性を扱うようなトピック(例:ピッチが合う)でもない。趣味というカテゴリーが照準しているものは何か。

これまで色んなところに書いてきたように、シリアスレジャーに依拠する自分の研究では、それは「専門的な楽しみ方をすること」となる。しかし「専門的な楽しみ方」とは、そうしてカテゴリー化をすることが何かが見えるようなカテゴリーなのだろうか。手芸のやり方、楽器の演奏の仕方、野球のやり方・・・こうしたものを「専門的な楽しみ方」として見る意味はあるのか。

それを探究するには「楽しみ方」という記述が、説明や理解や指示や訂正や修復や・・・といった記述と比べてどのように特徴づけられるのか、そして実践において「楽しみ方」と「専門的な楽しみ方」はいかに区別されるのか、ということが問題になってくる。領域固有のプラクティスをすることと、領域固有のプラクティスを楽しむことの差異は、実践においていかに理解可能になるのか。これが明らかにならない限り、「趣味」を趣味というカテゴリーを用いて研究することによって成し遂げられることは特にないということになる。アマチュアオーケストラの研究を趣味の研究、写真の研究を趣味の研究と言ったところで何か達成されているのか。人間関係ではなく趣味縁と言ったところで何か達成されたのか。

昔、村上先生にJSETの研究会で「それって仕事にもあると思うけど趣味だからこその部分は何ですか」と質問されたことを思い出す。「仕事にもあると思います」と返答した覚えがあるが、それだったら趣味を趣味として研究する意味は特にないのではないか?

あるいは趣味には「専門的な楽しみ方」ともう一つ「興味駆動」という要素もあるが、ワークを成し遂げるための相互行為として見るのと、興味発展の機会として相互行為を見るのでは何か達成されることは異なるか?

マスコミ学会のワークショップを聞いた限り『楽しみ方の技法』でもそこまでツッコんだ議論はなされなさそうだ。どうしたらよいだろう。

 

(追記)

「楽しむ」ということに見通しのよい記述を与えているのが遊び論だとしたら、それを制度的な相互作用にしたてあげたものが趣味ということになるのか?例えば、「競争」に楽しさがあるとしたら、競争のために競争し続けることを可能にしているのがスポーツであると。

 

www.learninghowtolookandlisten.com