九月十三日(木)

大阪で目覚めた。
実家の朝ごはんは美味しい。何種類かのフルーツにパンケーキ、生ハムと生野菜、書き出してみると、内容がどうかと言うことよりも器の力が大きいと思う。好きな器だけを大切にして、壊れたら適度に残念がってとらわれず、さらりと明日も生きていけるようなご機嫌な生活、体が求めている。

総じて、新宮の行きと帰りのロジを調べたりチケットをとったりしていた。ずっとライドシェアでやって来た学生時代とは裏腹に、公共交通機関でインとアウトの場所が違うのはなかなかに煩雑だ。

昼過ぎ、2年ぶりくらいにゆいきと合流した。とある政党は市民の意見やパワーの巻き込みを測っていて、それはただただ支援者を増やすと言う類のものでなく、市民参加でやっていこうということらしい。そのバックにある膨大なやり取りに目がくらんだ。ファシリテーションやコミュニティオーガナイジングのリアルな実践。言い訳が効かない現実の世界。

ひとまずミーティングに加わってみることになった。

帰って明日の報告会のスライド準備。あっという間にオンラインセッションの時間が迫って即席オムライスを作ってパクパク食べた。(母親はどうやらライブに行っている)

ズームに入るともうモーレツ問答が始まっていた。ふんふん頷いていたのを、今日は私も発言してみようと思い、聞いてみた。鏡に映る自分をジャッジする心の声について。自分のことはこうも自分で気付けないんだと笑っちゃうような鮮烈な返答。ドキドキし倒した。

みーちゃんが言うには、愛というのはとにかく「そうなんだね」とするだけのこと。だから私が「自分のことを美しいとは到底思えない自分がいる」ということを「ああ思えないんだね」「そこに何があるんだろうね」とただただ味わうこと、そして感情が起こるのを待つんだそうだ。
これが人の話なら私もそんな風に言っている気がするが、自分のことについては驚きの灯台下暗し。

感情が起こればニーズが見えてくるから、ニーズに繋がり切るまでは微動だにするな、なんとかしようとするな、というのが今日の繰り返されていた教え。

ジリジリどきどきしながら実験するのだろうなぁと思う。

母がめっちゃよかったー!と言いながら帰ってきた。


ゆり