九月三日(月)

 10時に起きてシャワーを浴びる。紅茶とパンを頬張りながら文化政策学会の予稿を書いていた。ロジスティック回帰分析の結果をまとめた表を作り、一気に書き上げる。研究分野の発展的にこの水準のモデルでもとりあえず妥当と言えるなら、なかなか示唆に富む結果が出ているんじゃないかと思う。メッセンジャーで共著者たちに送る。

 本郷に出て、事務処理と明日からの合宿の発表資料を印刷する。よくよくピアジェ以降の思想的系譜を辿ってみると、構成主義の方面と領域固有性の方面の両方で、趣味の研究につながっていることが見えて興味深かった。趣味の研究の大半がヴィゴツキー由来の社会文化的アプローチを採用しているけれども、ピアジェの要素があるというのは大変重要なことだと思う。
 趣味は専門的知識とスキルが動員されて行われる認知的に高度な営みである。その意味では、国家資格を要する医療活動や弁護活動と同じだ。それゆえ、趣味を楽しむには専門的知識とスキルの学習が必要になる。ここまではピアジェ(以降)的な話。
 しかし、趣味に専門的な教育を受けてから参加することはほぼない。そこが医療や弁護とは違う。まず趣味をはじめ、実践するなかで学び、趣味が深まっていく。ここはヴィゴツキー的な話だ。

 東中野に移動して、さくらちゃんとグアヒーラの練習。学部生の時からやっている振りだけに、昔よりはメリハリつけて踊れるようになったかなという気がする。相変わらず裏泊に入れるのが下手だけど。

 19時くらいに田端に帰ってきた。岡部先生がアマオケ論文と『ワークショップデザイン論』を同じ文脈で参照してくださったのは、とても嬉しいことだと思う。修士の頃は趣味の研究をしていて、先輩から「山内研で良いの?」とよく問われたものだった。博士の進学先もここで良いの?、とか。でも自分としては、学校という制度では捉えられない学びとその環境を、コミュニティなどの社会関係から、質的データを用いて記述するという点で、山内先生の真っ当な後継だと思ってやっている(デジタルメディアの要素はあまりないけれどもね)。
 まだ「興味」というテーマに定まっていない時に、「レジャーキャリア」をテーマにしようとして先生に強く諫められた時があった。今思えば当然のことで、「興味」という概念はデューイ以来、教育が目指す根幹にある。それをみすみす捨てるのは完全に間違いだっただろう。Interest-drivenな趣味には、進歩主義教育の見果てぬ夢がある。だからこそAzevedoをはじめとして、趣味を「学習(環境)のモデル」として見られるわけだ。

 ただ一方で、岡部先生や香川先生は、趣味を「ゆるかなつながり」のもとでなされる活動と位置づけるきらいがある。確かに学校・会社的なものへのアンチテーゼとして趣味を位置づけるなら、土台趣味にゆるやかさを見るのは無理もない話かもしれない。けれど、趣味の世界のなかには弱い紐帯もあれば強い紐帯もある。特に僕がアマオケ論文で見出したのは、むしろ強い紐帯の影響だ。趣味の研究者としては、そこの解像度は保ったままでいたい。趣味における学校・会社的なもの、強い紐帯を捉えられなければ、発表会文化や家元制度への批判的思考もとれないだろう。カリフォルニアンイデオロギーUNIXカルチャーだけが「アマチュア」を指すのではないのだ。

 杉山