三月二十一日(水)

春の嵐
昼前、Rさんと近所の古民家カフェへ。
Rさんが自転車にリュックの出で立ちで来ていて嬉しくなった。
「ご近所さん」になった。
スッと車を運転する姿ばかり見ていたので、なんだか可愛らしい。
久しぶりにゆっくり時間をかけて話す。ぽろぽろと本音がこぼれてくるのがわかる。余白と巡りが必要なんだって声が聞こえてきた。
買い出して、Nのカフェへ。厳密には、Nのお母さんが職場を引退してつくり、運営しているところ。
思っていたコミュニティとして機能させられている、そんなおばちゃんの充実感が伝わってくる。磨り硝子、可愛い。
NとSの家へ。元シェアハウスメンバー8人で節目のお祝い。持ち寄ってゆったりと話す。3ヶ月に1回は集まっていて、毎度半数以上はなにかの節目な気がする。
子どもができた、誕生日を迎えた、仕事が変わった、引っ越す、ライセンスをとった、本がでた、彼女ができた…
この世代は、つくづく面白い。
みんなのおかげで言語化できていく。
やりたいメディアの形。
後から後から沸いてくる。
実は、関心に重なりがあることも共有できる。
尾道デニムのようなことなんだ。
見えるところ、見えないところ。
見せないから見ようとするところ。
重なりと、ズレ。際立ちと、曖昧。
昨日も、今日も、地元の思わぬ再開や会話から、着実に言葉をもらってる。
ここでの充電は、もう少しで完了しそう。
原稿は今日も進まず。

ゆり