三月十一日(日)

 作家たるもの3.11に際して何かを語らねばならない、というのなら、僕は作家ではないだろう。
 
 いつものごとく昼前に起きて、シャワーを浴びて紅茶を飲み、西日暮里アルハムブラへ。フラメンコの後輩たちの卒業公演。自分が4年生のときの1年生たち。ソロの冒頭を飾ったアレグリアスが大変よくて、1番セカンド山田哲人のトリプルスリー、という感じ。
 でも個々人のソロも素晴らしかったけど、大トリの群舞ソレア・ポル・ブレリアが一番感動した。ぴったりあった息づかいと視線の作り方を見て、やっぱり良い学年だったなと思う。これまで7年サークルと関わっているけれど、自分よりもフラメンコに熱心だなと思う人たちだ。
 
 彼女たちを見ていると、自分にとってフラメンコの位置が問い返される気分になる。どう考えても世の中の大多数の人よりはフラメンコのことが好きだし、よく知っている。でも、フラメンコに生涯をかけているかというと、そんなことは全くない。自分の内側から自然とわき出るものとしてフラメンコがあるわけではないし、いつもどこかで、ちょうど良い辞めどきを考えている。
 一方で、フラメンコに出会っていなかったら今の自分がないことも確かで、だから、この先自分がなにをやろうと――今は文芸とエディトリアルデザインに興味があるわけだけど――、それはフラメンコによって「芸術表現」に初めて参加できた、ということの延長線上にある。
 
 いま学術的には「興味の深まり」という概念装置=視点を用いてる。けれど、自分にとってのフラメンコという存在について言い表すならば、別の道具立てが必要になるだろう。それは「興味の広がり」かもしれないし、あるいは別の概念がふさわしいかもしれない。これから考えていくべきことの一つだ。
 
 夜はピザを食べながら、家にあった『千と千尋の神隠し』を見る。何度見たか分からないけれど、終結部での髪留めのきらめきだったり、今見たからこそ気づくことがある。
 思ったより、ストーリーというものは、完璧な整合性をもって提示されていない。だからこそ人々はその世界について語り、ときに都市伝説が生み出される。なぜハクは魔法を学ぼうとしたのか。ハンコは何の契約のためだったのか――理路整然と必要十分な内容を開陳することは、必ずしも優れたストーリーテリングではないようだ。
 
 [杉山昂平]