十二月八日(火)

Banggoodで買ったiPlay20が電源は入ってもディスプレイが映らない文鎮だったので問い合わせたら全額返金になるらしい。3営業日には戻りますとのこと。本当に返ってくるまで油断ならないがメールの返信は早い。そうしたらAmazonで買い直す。

返送しなきゃいけないのかと思ったらしなくていいらしい。とはいえ文鎮なので使いようもなく、手元に残ったこのタブレットはどうしたらよいのだろう。

杉山

十二月二日(水)

昨晩の通夜は、ひどくくたくたになった。
棺の中の顔はとてつもなく麗しかった。
遺影は真顔だった。

朝はひどい寒さで目が覚める。
昼は、ぱやぱやと仕事をこなす。
夕方に連絡会へ行き、帰宅した。

大学の科目の課題を六割くらい仕上げる。やっつけ仕事の中で丁寧さを出して行くという、中途半端極まりない態度で取り組んだ。
その後で、ゼミ発表資料に少し手を付ける。資料作成の方向は、発表済みの物を博論構成チャプター用に仕上げなおすという感じでおおよそ固まっているので、フォーマットを作り、構成メモをつくる。


もらったキウイフルーツが熟れて甘酸っぱい。

S





十一月三十日(日)

「野球をする」と「野球を楽しむ」、「会話をする」と「会話を楽しむ」、「仕事をする」と「仕事を楽しむ」、これらの記述の違いは何か・・・ということがここしばらくの問題であった。

そこから発展的な調べ物があったわけではないが、どうやら言語学において「楽しむ」は「感情動詞」の一種らしいということを知った。感情動詞の概念分析を見つけられたら少し前進するかもしれない。

杉山

十一月二十九日(日)


 本来自分の順番ではないけど、書きたい衝動というか書かないといけないという罪悪感があるので、書くことにする。本来なら知らせを受けた金曜の夜に書くべきで、そうすれば順番通りなのだけど、土日ずっと心が上の空になって真剣に向き合えなかった。ひたすら他人に甘えてやり過ごした。でもさすがに今週は通夜がある。葬儀がある。向き合わなければいけないが、内省しようとすると逃げる癖があるので、文章を作って心に形を与える。

 

 知人が死んだ。仕事でお世話になった人だ。少しの間だけ仕事を共にしたこともある。そのときは仕事のペースがいろいろかみ合わず、立場上こちらが折れることが多くあったので、なんとなく悶々と愚痴めいたものを抱えていた。だけどそれと同じくらい、こちらが困憊しているときいろいろ慰めてもらった。あちらが抱える事情も聞いた。こちらの抱える事情も聞いてもらった。仕事を共にしなくなった後も、何度となくこぼしていたらしい次の異動先が自分と似ていたので、また十年後くらいにひょっこり会えるだろうと思っていた。そのくらい記憶の中では、所作や言動を思い出せるくらいには共にいた人だ。そしたら死んだらしい。

 

 何度もその人が送ってくれた最後のメッセージを見た。まったく泣けない。本当に、自分の中にある記憶のリアリティが、一年前のままだ。死んだという知らせのほうが、現実感がない。いまだにない。

 遺影の中の顔は笑ってるにきまっている。どうせ何度も見た顔だ。まじで、ほんとうに、心の底から、見飽きた顔だと思う。LINEのアイコンにも同じ顔がある。遺影なんてただのポートレイトだ。職場の忘年会やら海釣りの時間やら女子会中に気軽に撮られる軽率な一枚とまったく同じだ。おめかしの度合いが違うだけだ。

 棺の中の顔を見るのが、本当に怖い。

 最後にみた祖父の顔が、生前のそれとあまりに違って、モノというか、非人間というか、そんな感じだったのが記憶に残っている。それと同じものを見る。たぶん今週。記憶の中にある精彩が、遺影の前で華やかにすりつぶされる。思うだけではきそうだ。


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十一月二十八日(土)

Brown & Bell (2004) CSCW at Playを読んだ。期待して読んだのに分析が退屈すぎてがっかりしてしまった。バリー・ブラウンは余暇、HCI、会話分析と自分にとって重要なワードを網羅している研究者だし、理論的な主張は面白いのだが、実証がこの調子だと肩すかしを食らってしまう。

序論は面白い。HCIやCSCW研究は基本的にシステムが人にもたらす不快さをいかに減らし、活動の効率性をいかに高めるか、という目的に向かって進められるが、ゲームではそうではない。むしろ、複数の人々とコンピュータの関わりによって生み出される「楽しい経験」をつくりだすことが目的であり、それはHCIやCSCW研究に美学や物語、文化を持ちこむことだと述べられている。重要な主張だ。

しかし、実証で行われているのは、オンラインゲーム"There"における様々な相互作用の分析ということになっているが、それがなぜ楽しい経験を生み出しているのかについての考察が杜撰だ。例えば、Thereではアバターの視線や会話が実装されていて、日常生活と変わらないような会話を行うことができると分析されている。ブラウンらはそれがThereにおける楽しい経験を生み出していると考察しているのだが、なぜそう言えるのかが納得できない。日常生活のあらゆる会話が楽しいわけではないのに、日常生活の会話が再現できるからといって、それが楽しさをもたらすと言えるのだろうか。

おそらく、ブラウンらは次のような推論をしている。

  • [p→q] オンラインゲームは楽しい経験をつくりだす
  • [p→r] オンラインゲームは日常生活の会話を再現している
  • [r→q] 日常生活の会話の再現は楽しい経験をつくりだす

オンラインゲームをプレイしているあらゆる瞬間が楽しいのであれば、この論理は成り立つ。おそらくブラウンらは自覚しているかどうかはともかく、その仮定を採用している。だからゲームで行われることは全て楽しい経験をつくりだしていると解釈してしまう。

しかし、ゲームだって退屈にプレイできてしまう。明らかにこの論理は間違っている。ゲームを研究したから、余暇活動を研究したから、必然的に「楽しさ」を研究することになると思ったら大間違いだ。

ところが、「プレイすること」と「楽しむこと」を無条件に同一視してしまう研究は多い。余暇研究でも「楽しさ」や「楽しむこと」が何なのかを扱う研究は見かけない。余暇活動を対象にしているから、楽しいことが当たり前になっているのだろうか(という点では leisure boredom の研究は面白いかもしれない)。

「会話をすること」と「会話を楽しむこと」は日常生活でも区別されるはずである。そのうえで、CSCWシステムが、ただ会話をすることではなく、会話を楽しむことをいかにして可能にしているのか。そこまで焦点化した分析をしてくれれば良かったのに。

『楽しみの技法』の質疑応答以来、ずっと同じことを考えている。自分はそこに取り組んだ研究をするべきということだろうか。どのようにすればよいか。

杉山

十一月二十三日(月)

ロジャース・ホールがJounral of the Learning Sciencesに書いたグッドウィンの回想を読んでいたら、アリゾナ州立大学で開かれた「Learning How to Look & Listen」というワークショップの記録が紹介されていた。教師が子どもたちに対して「物体は空間を専有する」ことを説明している2分間のビデオを、相互行為分析に携わる研究者たちがそれぞれ視聴して分析し、その後グループでデータセッションをしたという催しである。グッドウィンやロゴフ、ホールをはじめとする人々が、自分がどのような相互行為分析を行ってきたのかを紹介するプレゼンテーションもある。

このワークショップでは「人は物質的資源や身体を使いながらいかにして説明や理解を達成するのか」といった事柄が問題になる。グッドウィンの研究を紹介するホールの書き方もそのようなものだ。説明、理解、身体・・・相互行為分析が明らかにするのは人間の活動の基礎の部分なので、様々な領域を対象にした研究の知見が相互連関する――例えばグッドウィンによる考古学者の研究が、ホールとスティーブンスによる土木技師の研究で活用される。訂正もそうだろう。

こういった研究を追っていると、「趣味」という研究トピックの立て方にどんな意味があるのか分からなくなってくる。どんな領域に当てはまるような基礎的なトピック(例:説明)ではないし、かといって領域固有性を扱うようなトピック(例:ピッチが合う)でもない。趣味というカテゴリーが照準しているものは何か。

これまで色んなところに書いてきたように、シリアスレジャーに依拠する自分の研究では、それは「専門的な楽しみ方をすること」となる。しかし「専門的な楽しみ方」とは、そうしてカテゴリー化をすることが何かが見えるようなカテゴリーなのだろうか。手芸のやり方、楽器の演奏の仕方、野球のやり方・・・こうしたものを「専門的な楽しみ方」として見る意味はあるのか。

それを探究するには「楽しみ方」という記述が、説明や理解や指示や訂正や修復や・・・といった記述と比べてどのように特徴づけられるのか、そして実践において「楽しみ方」と「専門的な楽しみ方」はいかに区別されるのか、ということが問題になってくる。領域固有のプラクティスをすることと、領域固有のプラクティスを楽しむことの差異は、実践においていかに理解可能になるのか。これが明らかにならない限り、「趣味」を趣味というカテゴリーを用いて研究することによって成し遂げられることは特にないということになる。アマチュアオーケストラの研究を趣味の研究、写真の研究を趣味の研究と言ったところで何か達成されているのか。人間関係ではなく趣味縁と言ったところで何か達成されたのか。

昔、村上先生にJSETの研究会で「それって仕事にもあると思うけど趣味だからこその部分は何ですか」と質問されたことを思い出す。「仕事にもあると思います」と返答した覚えがあるが、それだったら趣味を趣味として研究する意味は特にないのではないか?

あるいは趣味には「専門的な楽しみ方」ともう一つ「興味駆動」という要素もあるが、ワークを成し遂げるための相互行為として見るのと、興味発展の機会として相互行為を見るのでは何か達成されることは異なるか?

マスコミ学会のワークショップを聞いた限り『楽しみ方の技法』でもそこまでツッコんだ議論はなされなさそうだ。どうしたらよいだろう。

 

(追記)

「楽しむ」ということに見通しのよい記述を与えているのが遊び論だとしたら、それを制度的な相互作用にしたてあげたものが趣味ということになるのか?例えば、「競争」に楽しさがあるとしたら、競争のために競争し続けることを可能にしているのがスポーツであると。

 

www.learninghowtolookandlisten.com

十一月二十二日(土)

Lindwall & Ekström (2011) の序盤を読んだ。かぎ針編み講座におけるインストラクションの相互行為分析である。初歩の初歩の編み目づくりの技能を「manual skills」と呼び、私たちが社会のメンバーとしてふるまうことを可能にするささいな技能――ネクタイを結ぶ、卵を割る、クラッチを切る――として位置づけている。こう言われると、趣味は専門的な余暇活動だといいつつも、日常的な制度の基盤に成り立っている――特に「入門」や「体験」の場面ではそれが見て取れる――と思えてくる。

また編み目のつくり方に関する一対多の教授場面で、要求、実演、訂正がいかに組織化されているのかという分析も面白かった。教師は話し始める前にフィラーを入れることで生徒の注目を集める(それによって聞き逃しのないようにする)とか、「編み目を10個つくってみて」という要求は生徒が要求を受け入れるかどうかが気にかけられている「依頼」ではなく、言ったとおりの動作ができるかどうかが気にかけてられている「指示」であるとか、目の前で生徒が編み目をつくっていることで「上手く編み目がつくれない」生徒の存在が可視化され理解可能になることが、教師が実演の再開をし始める際の資源になるとか。フラメンコの練習を想起しながら読むと、確かに見通しのよい記述が与えられることのよさを感じる。

この論文を読んでいると、趣味を始めることには困難はなく、日常から専門領域への移行がスムースに行われる(地道な訂正の積み重ねによってそれが達成される)ように思えてくる。これまでの趣味研究で課題だと感じていたことと、こうやった相互行為分析を学ぶことで見えてくるものを付き合わせることで、どんなトピックが浮かび上がってくるか。それが出てくれば博論後の研究の焦点になるだろう。それを期待して相互行為分析の勉強を続けたい。

杉山